Nostalgic Nepenthes cultivated in Kansai

内藤 弘昭

昭和30年代,京都古曽部温室では数多くの食虫植物が培養されており,特にNepenthesは種類,量ともに当時としてはNO1の存在だったと思います。N.alata(当時N.stenophyllaと称されていたもの)N.ventricosa,N.maxima.N.mirabilis N.witteii N.dyeriana N.tsujimotoNO1,NO2 N.hookeriana N.mastersianaAand B N.mixta N.wrigleyanaの各大株と挿し木苗で一部屋を占領する有様でした。部屋の片隅ではアシナガムシトリスミレや熱帯性のDrosera類が,屋外栽培場では数多くのSarraceniaaが所狭しと並べられ,S.flava S.psittacina S.purpureaと各種交配種があり,その中の一つ,京大NO3が京鹿の子(S.kyokanoko)と命名され、広く一般に普及されるようになりました。
皆さんは商家の入り口にデンと腰を据え,大きな福耳と上下を着けたマスコット福助人形をご存知でしょうか?この宣伝方法の考案者が福助足袋の創業者,辻本氏です。足袋=袋物=Nepenthes に興味を示され,堺市の自宅に温室を建ててNepenthesの栽培をされていました。ぼんぼん育ちの若旦那,最初から上手に栽培できるはずもありません。天王寺植物園(大阪市)の園芸担当の方々が余暇を利用して指導にあたられたということです。N.tsujimoto NO1,NO2はこんな環境の中で作出されたのです。その姿からN.mastersiana×N.wrigleyanaではないかと推測されます。さらに、辻本氏はNepenthesに関する本を出版すべく、品種解説や栽培の要点などの原稿を上梓され、N.rajah N.lowii N.villosa N.rafflesiana N.ampullariaなども腸葉されていましたが、日の目を見ずに今日に至っています。おそらく、大和農園宝塚営業所の椙山文備氏のところで眠っているものと思われます。
宝塚の小原温室には山川先生の紹介で伺いました。小原氏は大阪市大私市植物園の玉利氏と親しく、このルートを通じて垂延の的であったN.rafflesiana3系統、N.gracilis N.ampullaria バンカビリトン島のN.albo-marginataが山川先生を経て仲間入り、約15uの専用室でのびのびと育っていました。
昭和31年姫路に落ち着いてもう転勤することもない、と本腰を入れて花作りを始めた矢先、大津に新設部隊が出来るということで、昭和34年2月、先見隊要員として勤務しました。155mm榴弾砲用牽引車の荷台に花をいっぱい詰め込んでのお引越しです。大津は米軍のハイドロポニックケミカルの有情の跡地だったので、余暇を利用して廃材を集め、温室作りに精を出し、約23u(7坪)の温室と5.2uのフレームが完成しました。湖岸から10m砂地だったので、地表から40cmあまり掘り下げ半地下式として湿度の保持を図りました。隊内での火気使用は許可がうるさくてたいへんですが、許認可の担当部署を預かっていたため大助かりでした。練炭、LPG、灯油と選択肢に迷いましたが、最終的には石油ストーブ使用に落ち着きました。ここからNepenthes行脚が始まる訳です。園芸界の大御所、鈴木吉五郎氏にお願いして紹介状を頂き、各地の温室訪問をする訳です。古曽部温室の瀬川氏、私市の玉利氏、と斯界の寵愛を受け、日本蘭協会への入会など水戸黄門の印篭以上の効力を発揮しました。
このようにして古曽部のNepenthes全種類と小原温室のものの導入に成功、さらにフランスのルクーフルからN.intermedia(N.hookerianaの在来形) N.coccinea N.superba (mastersiana) N.henryana等を輸入してコレクションの充実を図りました。 東京の大場蘭園ではN.ventricosaの大株(当時の価格で5,000円…大卒初任給6,000円)を買い求めました。この頃、名古屋の近藤誠宏氏との交流が始まり、名古屋植物園の坂梨一郎氏など大勢の方々との親睦を深めていきました。 自衛隊のよいところは3食お金がなくても生活していけるので、給料はすべて交通費と花代に消えていきました。業務の一つに写真に関する一切を担当していました。暗室入り口に赤色灯が灯れば室内は別世界です。日下部氏がアメリカの国会図書館から入手されたプランゼンライヘンのNepenthesの頁のマイクロフィルムの複製作業をしている訳です。当時は現在のような高性能のコピー機などはなく複写専用ペーパーに焼き付けるのが一般的でした。約60コマ、10部を複製したので600枚あまりを焼き付けしたでしょうか。N.rajah N.lowii N.villosa N.edwardsiana N.veitchii N.ampullaria の他、N.hookerianaも記載されていました。Nepenthesのバイブルとして現在でも高い評価を受けています。
昭和38年、八丈島に渡り約2年間園芸修行をしている時に出来たのがN.minamiensis(N.mixta×N.wrigleyana)です。島を離れる時に約20株をお土産として日下部氏、越川氏にお渡ししたものの中から面白そうなものがあるということで栽培室に残っていた約50株ほどを一正園に連絡して引取ってもらい、育成されたものです。
海外渡航がまだ規制されていた頃の昭和39年、大阪私大の学術探検のため、私市植物園の立花氏が派遣され、スポンサーに名古屋の近藤氏、これにチャッカリ便乗の豊島氏と三者三様の目論見でボルネオ行きが実現。この時にN.bicalcalataが採集され、これを嚆矢としてNepenthes探検隊が次々と組織されるようになり、日本が世界の市場をリードする足がかりになった訳です。お後がよろしい様で、、、、、

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